ケムリクサは「愛」の物語なのでは?という考察もどき
5話がさあ~。
5話よかったね…。
実は3話まで面白さがピンときてなかったんだけど、4話でこれは…!となって、5話がすごく良かったです。
ちょっと遠巻きに眺めてたら5話で火柱に引き込まれちゃった感じ…する……頑丈な体をしているのがりんちゃんです(?)
早く続き見たいなあ~。
ここから少し考察。
まあ、インターネットで色んな説の考察みてホヘーって言ってるレベルの奴が考えた考察ですが。
ケムリクサって「愛」の話なのではないか!?
は?
なぜそう思ったかということから記しますが、まずケムリクサの事考えてて
りんは、りつとりなちゃんズの好きなことが大切でわかばは眼中にないというシーンが5話であったが、わかばのキラキラがもしりんの好きだったとしたら、最終的にりんの大切なものランキングはわかばとりつりなちゃんズで逆転するのかな?それってなんか寂しいな…。
と思ったのでした。
しかし考えてみれば家族より大切な人ができるのって普通にあることじゃん、となって、でも姉妹って言ってるけど元々は1人だからつまり自分…?
彼女らの姉妹愛は自尊心に近いものなのか?などと色々考えましてですね~。
コフート曰く愛は3段階で進化するというんですよね。
簡単に書いとくと
1:自体愛
自分の事だけを考える幼少期の愛の発達過程
フロイトは性欲がなんとかっつって5段階に分けている
↓
2:未熟な自己愛(自己愛)
自分だけを愛し他人はもの扱いする状態、もしくは自分だけを愛せない状態。
一口に自己愛と言っても単なる「自分個人」だけでなく自己愛を満たしてくれる他の存在(母など)も対象となる。
ここで健全な自己愛を得られず病的な自己愛や過剰な自己愛を獲得してしまった場合、自己愛性パーソナリティ障害になってしまう原因になる。
↓
3:成熟した自己愛(対象愛)
自分を愛し、他人も愛せる状態。
です。
フロイトはなんでもかんでもリビドーに結びつけるし自己愛を病理だと言ってのでコフートの方が近いかなと思いました。
そもそも姉妹と言われてるから若干忘れがちだが、メタ視点での常識で考える姉妹ではなく、りん達6姉妹は元々一人から生まれた謎の生命体で元は一人。
しかし、分裂しているだけあって意識は6つありそれぞれ自我を持っている。
それすなわち彼女たちにも30通りの関係があるということで、段階的に一人ではわからない思いやりとかそーゆーのを得て、お互いの関係性の間での姉妹愛を持てるようになったのではないか。
しかし、分裂してるだけで元は一人なのでやはり完全には切り離せない?
でも自己対象なのかもしれない?
姉妹愛≒自己愛
ここでたつき監督がツイッターで後悔している趣味のアニメを元に姉妹の愛の対象について見てみる(趣味のアニメと本編が矛盾してきてるのでもしかしたら本編と直接繋がってるわけではないのでは?という恐ろしい考察を見たがここでは考えないようにする)と
~~~自体愛~~~
りょくの好き:知る
「さいこーたのしーじゃん」
→「自分が」楽しいから知りたい
りょうの好き:戦う事
「(楽しいことをしてるうちに)自分のことがわかる気がするんだわね~」
→「自分のことがわかる」から戦う
りょうとりょくは「好き」でなく「楽しい」と言ってる
~~~どっちかわからん~~~
りくの好き→何かを触る?
「触ってみたらたまんね~っ」
触るってなにかの例えなのか本当に触ってるのかわからんが…。
ものが好きというより「自分」が触るのが楽しいのかな?
~~~自己愛の壁~~~
りなの好き→食べる
「そしたらねえね達の役にも立つな!」
本編で食べるというのは我々の思う消化とかでなく、食べたことない形、味のを保存するというのがわかった事はみんな知ってるよね!
ここで大事なのは「ねえね達の役にも立つ」という部分。
「自分」が好きなことをすることで「姉妹」の役にも立つことを明確に発言し喜んでいる。
~~~わからんの壁~~~
りつの好き→みどりちゃん 増える事?
「この子は私が守るにゃ」
自分を犠牲にしてでも守りたい「姉妹(自己)以外の存在」
これは対象愛かと思っていたが、5話で自分を犠牲にしてでもみどりちゃんに水を与えていたという描写があったため姉妹愛としての自己愛はあっても、りつ個人としての自己愛は健全なものではないのでは?という考えに至った。が、どうなんだろう?自己犠牲の愛もなくはないよなぁ…。
~~~対象愛の壁~~~
りんの好き→不明 わかばと仮定する
「よくわからん」
「私にはなにも…」
他の姉妹よりできることが多かったから選択肢が多くて好きなものが見つけられなかった?とかなのだろうか?
以上を省みますと、趣味のアニメは姉妹の自己愛の成長を示している?
りんりつりなは発達しているから生き残った?
とか色々考えられる。
姉妹メインの考察なのでサッとですがわかばについても同様なのでは?
わかばは命捨て太郎と揶揄されるように自分の身を投げ打って他者(姉妹)の役に立とうとしがち。
しかしコフートは自己愛がなければ他者を愛することもできないと言っております。
なぜなら他者しか愛せないというのはイコール自分を愛していない状態であり、依存的かつ自滅的で「成熟した自己」とは言えない。
わかばにとってもこの物語は未熟な自己愛の段階から抜け出し自己愛を育て対象愛へと進化していくための過程なのかもしれない。
ケムリクサの世界には(暫定的ですが)自分たちとわかばしか”ヒト”は存在しません。
もし姉妹ないしりんがわかばを愛の対象とするなら世界中のみんな(全7人)を愛したことになる。
つまり、このアニメは
姉妹の自己愛が博愛になる過程を辿るものなのではないだろうか。
という考察もどきでした。
うーん。
そもそも父母が生育にいらなくて幼少期もないっぽい姉妹達とわかばに人間の心理学を当てはめるってズレてるよね(考察全否定)
これ書いてて思ったけど「愛」より「知る」の方が重要キーワードなのでは…いや、全然わからん!
まあ同監督製作のけものフレンズも当時考察してたけど、全然トンチンカンだったからなあ。
上記の説もだいぶ的外れだと思うけど。
どんなにいい冷奴を出されても氷川さんが力を入れて取ったらグチャグチャですからね。
監督さんの思考回路は自分のよーな凡人とは全く違うんだろうなーと思うわ。
それか自分が作品をまるで理解できてないかだな…笑
まあ考察って合ってるかどうかはおまけみたいなもので、あーでもないこーでもないって言うのが楽しいのだろう。多分。いや、どうかな?知らんけど。
すげ~長くなっちゃった。
えー…早く6話みたいです。
以上です。